院内の年寄りたち(3)

 俺は親父が亡くなる時、ありがとうの一言も掛けてやれなかった。だから毎朝、

まだ誰もいないデイケアに一人座っているこの好好爺を父親のように優しく挨拶し

軽く話しかけた。そんな好好爺も、彼と同室のヤツの話によると、時々夜中に起き

ては、迎えが来ると言いながらゴソゴソと荷造りを始めるらしい。もちろん誰も迎

えには来ない。俺はその話を聞いてからは、早朝彼に声を掛けるときは、まあるく

なった背中にも手を掛けた。「おじいちゃん、今日も早いねえ。」と。

 昼のデイ・ケアのホールでは、いつも車椅子で動いている上品なおばあちゃんが

目立った。彼女が90歳を過ぎていると知ったのは、初めて彼女と挨拶を交わした

時だった。おばあちゃんにとって自分の歳を伝えるのは挨拶言葉の一つのようだっ

た。おばあちゃんの歳は誰もが彼女から聞いて知っていた。彼女は食事の時間と自

由時間にデイ・ケアのホールでよく見かけた。いつも穏やかで上品な彼女を見てい

ると、院内はまるで「ひまわり老人ホーム」にいるような気がしてくる。そんな彼

女も院内ではストレスが溜まってくるのだろう。全員が揃う瞑想の時間に彼女はデ

イ・ルームに来るや否や小言が始まる。独り言ならまだしも、大抵はその矛先が対

面のおばあちゃまへ向けられる。瞑想時間中の静寂なデイ・ルームの空間で彼女の

声だけが響く。「カタカタとうるさいよ。瞑想は静かにするの。ほらまたカタカタ

 と机を叩いている。」すると誰かが怒鳴る。「静かにせんか!お前の方がうるさ

いんじゃ。瞑想中だろうが。」俺は心の中で呟く。「そんなお前もうるさいぞ!」

みんなそう思っているのだろうが沈黙を守っている。俺の隣に座っている寡黙そう

なヤツが俺に向かって囁く。「毎朝の行事だよ。これがないと一日が始まらない。」と。それ以来俺はそいつとよく話をするようになった。