実習生がやってきた(5)

 実習生は俺の手を取ると「脈を取らせてください。」と言って自分の腕時計を見

た。俺は少しドキドキした。だって、こんな若い女の子に手首を持ってもらうとは

思ってもみなかったからだ。俺が「今日は実習生が脈拍を測るの?」と訊くと、彼

女は「いえ、私たちは自分が担当している患者さんと同じ部屋の方だけです。」と

言った。「じゃあ、実習中は毎朝貴女が脈を取ってくれるんだ。」と言ったら、彼

女は「はい。」と言った。朝のささやかな楽しみができた。それからの実習中、彼

女は僕が散歩しているとやって来ては一緒に歩いたり、僕が皮細工の作業している

と隣で話し掛けてきたりした。「俺の話ばかり聞いてもつまらんでしょう。他の人

 の話もいろいろと聞いてみた方がいいよ。」と言うと彼女は「私たちは担当の人

 としか話をしないように言われているんです。」と言った。俺はそれが大学の指

示なのか病院からの指示なのか興味があったが、それを彼女に聞くことはしなかっ

た。あっという間に一週間の実習が過ぎた。最後に俺は彼女から、「ヤマダさん、

 退院されたらお酒を飲まないで頑張ってくださいね。」と言われた。俺にはホロ

苦い言葉になった。

 

   *これはフィクションです

 

 

 

実習生がやってきた(4)

 俺ははっきりと「あなたの質問はありきたりで面白くないから俺が質問する」と

言ってやった。俺の質問によって引き出した彼女の話によると、彼女は看護師にな

るために精神科はもちろん、内科、外科などいろいろと実習でまわらなければなら

ないらしい。俺は「そうだよねえ、誰も好んで精神科の看護師になりたいとは思わ

 ないよね?」と言ったら彼女は否定しなかった。本当に素直な娘だ。俺は他人の

プライベートには干渉しない対応をいつもしているので、当然、彼氏はいるの?と

か、兄弟は?とか、出身は?なんて質問はしない。短い対話時間の中で若い娘と話

すことなんてない。だから時間の最後に「今度会う時は、もっとお話ししたくなる

 ような質問を用意してきて。」と少々毒づいた。

 翌朝、俺はさっそく実習生に担当される恩恵を被った。朝の瞑想の後、少しの待

ち時間があり検温や脈拍を測り記録する。部屋ごとに分かれて各自が検温し、部屋

の代表が便の回数を聞き取りまとめて記録する。脈拍だけはナースステーションか

ら出てきた数名の看護師が患者たちの脈をとってまわる。それが終わった順に薬を

飲む飲む列に並ぶ。だから看護師が早くまわって来れば早く脈をとってもらい列に

早く並べるが、遅ければ列の後ろに並び待たなければならない。待つことが嫌いな

俺は、看護師が遅いと不愉快で仕方なかった。実習生がきた翌朝、いつもの瞑想が

終わり、いつものように看護師がくるのを待つとすぐに、俺の実習生がやってきて

なんと俺の手を取ったのだ。

実習生がやってきた(3)

 俺は思い出した。病院伝説で聞いたことがあったことを。ここの病院では患者を

引き受けるかどうかはその患者の身辺調査をしっかりとやってから決めるそうだ。

つまり、その患者の家族構成、職歴、年収、資産等を調べあげて入院費不払いなど

の金銭的なトラブルが起こらないように、そして病院側に被害が被らないようによ

うにしているようだ。もしその伝説が的外れだとしても、そう遠くに噂の矢は飛ん

ではいないだろう。事実こうして病院の入院患者ファイルの中に俺が約5年間やっ

ていた居酒屋のことが記されてあり、それを実習生にまで見せているのだ。そうな

のだ。精神病院の中では患者にプライバシーはない。見舞客だってその患者の近親

者が許可した者でないと病棟に入れてもらえないのだ。俺なんか見舞いに来てもら

いたい人があったのに、嫁が「そんな人知らないわ。」と言いそうなので、ずっと

一人おとなしく過ごしている。もっとも、その方こそ俺の見舞いに精神病院へ来る

のは嫌だろう。実際、今俺の目の前にいる看護師の卵だって精神病院に偏見を持っ

ていたではないか。俺はその卵ちゃんに俺のファイルの中で他に何が書かれていた

か訊いてみたが、ファイル内の情報は患者に見せてはいけないと言われているから

と拒否された。そして病院の生活はどうか?どんな活動をしているのか?食事はお

いしいか?などくだらないことばかり質問するので、俺はすっかり辟易して黙って

仏頂面を決め込んだ。そう、俺はとっても大人げないのだ。

実習生がやってきた(2)

 朝礼で実習生たちの紹介があった日の午後、実習生たちと俺たち患者の顔合わ

せがあった。俺の担当になった実習生は、大学4年生で丸顔でちょっと童顔の女

子だった。大きな部屋でそれぞれの担当組に分かれ、お互いに簡単な自己紹介を

しあった。それを大学側の教官と看護師が監視していた。俺は開口一番実習生に

「精神病院へ来てみてどう思った?」と訊いた。彼女は少し間を置いてから言葉

を選ぶように答えた。「思っていたより普通の病院のみたいだったのでびっくり

 しました。」俺は普通という言葉が可笑しくてからかい口調で「普通かあ~、

 映画やドラマに出てくるような、病院内を奇声を発して歩いていたり、ベッド

 に縛られたまま暴れているような凄い所だと思っていた?と意地悪く言った。

彼女は困り顔で答えないでいるので俺は更に続けて「病院の通路に鉄格子ででき

 た部屋が並んでいて、中から『出してくれ~!』と叫びながら手を掴まれると

 思っていたんでしょう。」と笑いながら言った。そして「何でも訊いて。何で

 も答えるから。」と彼女に質問を促した。すると彼女は俺の顎が落ちるような

まさに驚愕するようなことを言った。「ヤマダさんは居酒屋をやっていたんです

 よねえ?」「えっ!なぜ知っていの?自分でも忘れていたし、病院の中で一度

 も出てないよ。主治医だってそのことは知らないと思うのだけど。」すると彼

女はキッパリと言った。「病院の患者情報ファイルを見せてもらったんです。」

ここからは完全に形勢逆転で彼女に主導権を握られてしまった。

 

実習生がやってきた(1)

 ある日、男性看護師が俺に声を掛けてきた。「今度、うちの病院に実習生が10

 人ばかり来るので、そのうち1人の担当を受けてくれませんか?」つまり1人の

実習生が俺の担当になり、俺と話をしたり病院での生活を見せやってくれ、とのこ

とだった。「俺でいいんですか?ろくな被験者ではないですよ。」と言ったが、普

段通り過ごしてくれたらいいと看護師が言うので、俺は渋々ながら引き受けた。単

調な病院生活に飽き飽きしていた俺はちょっとした刺激でも欲しかった頃だった。

 ある週明けの朝礼時、実習生たちがやってきた。10に程が横一列に並んでいた。

将来の看護師たちだ。男1人にあとは女子。全員大学生だから当然若い。こちらは

ほとんどが男で年寄りばかりだ。女性も少しはいるが、シーラカンスを相手にして

いる乙姫様のような方々だ。そこへピチピチッと若くて華やかな雰囲気を病院内へ

もたらしてくれたのだ。おじいちゃまたちも竜宮城へ来たような気分だろう。俺は

その貴重な1人の実習生の担当になったのだ。正直、この雰囲気をもっと幸せに感

じてくれるであろうおじいちゃまと代ってあげたかった。俺はだんだんと面倒臭く

なってきたが、ともかく実習生たちとの時間が始まった。

 

   *これはフィクションです。

これが病院伝説だ(3)

 その男、入院生活が嫌で嫌でたまらなかった。早朝散歩の時に敷地の外へ脱走す

ることも考えた。敷地周辺を囲ってあるフェンスは小学生でも乗り越えられるよう

な高さでしかない。そこが刑務所とは違うところだ。実際、過去に何人もの入院患

者が逃走している。逃走したからといっても犯罪者ではないので法的拘束力は病院

にない。脱走者の家族が受け入れるなら、そのまま脱走劇は円満に終了するのだろ

うが、元来家庭内が円満でないから入院しているのだ。当然入院患者は堀の外に平

和はない。

 さてその男、軽率な脱走を戒めながらその機会を窺っていた。そしてその機会が

やって来た。外泊許可が出たのだ。外泊といっても、最寄りの駅までの送迎は病院

バスを利用し駅から自宅までの運賃しか病院側から貰えない。自宅から病院へ戻る

時は、余分な金品を持ち込もうとしていないか入念にボディ・チェックをされる。

 その男は、自宅までの交通費を握りしめ病院を出た。もちろん向かった先は自宅

ではない。友人を頼って行方をくらましたのだ。友人がその男にとっていい友人か

否か個々では判断できない。

 ある日、男は隣県都市の街中を歩いていた。そこへ突然乗用車がその男の隣へ横

付けされ中から2人の男が降りてきた。その1人の男に布袋を頭から被せられると

強引に車へ乗せられた。その男は車の中で抵抗して暴れると口にハンカチのような

布を宛がわれそのまま意識を失ってしまった。

 その男が気付くとベッドの上へ寝かされていた。そこがどこかはすぐにわかった。

その部屋がピンク色だったからだ。男はそれで観念した。

 

 俺はその話をしてくれたヤツが、実はその男本人だったのではないかと、今でも

思っている。あるいはヤツの現在の置かれた境遇から生み出された話なのかもしれ

ない。ヤツはずっと退院したがっているが、家族が受け入れてくれないと、ヤツは

言っていた。そして今では一生この病院で過ごすのだと観念していた。

 

   *これはフィクション中の人物が生み出したフィクションです。

これが病院伝説だ(2)

 横綱級の噂話の後では、他のたわい無い噂は赤子の手をねじるような単純なも

のだが、赤子とてバカにはできない。なんたって泣き出したら止まらない。

 

『病院内で出された手紙は全て検閲される。』

  患者の書いた手紙はナース・ステーションに置かれているお手製段ボールの簡

 単なポストに投函するのだが、郵便局員が病院へ回収しに来る前に、患者の手紙

 は中を担当の看護師によって全てチェックされているらしい。

 

『患者たちで組織された自治会は病院側のスパイである。』

  そもそも自治会執行部役員は看護部長の承認によって決められる。役員たちは

 ある程度の見返りが与えられ、彼らは病院のスパイになっている。

  俺が思うに、仮にスパイでなくても誰もが早く退院したいのだから少しでも病

 院側に尽力したいヤツはいるし、病院もそんなヤツを上手に使いたいよなあ。よ

 うするに魚心に水心だね。それに全患者から、月5000円もの自治会費を病院

 が徴収している不満もあるんだろうね。だって自治会費を病院が使っているのだ

 からね。何に使っているかって?それはまた今度俺が噂でなく話そう。

 

『県内のほとんどの病院がこの精神病院と契約している。』

  患者を集めるために、県内のほとんどの病院と結託して患者を送り込ませてい

 る。その理由をアルコール依存症と診断を下してもらい、送り込ませた医師には

 報酬が支払われている。

 

 などなど・・・あとは、『オレはあの看護婦と寝た。』だの、『病室に監視カメ

 ラが付いている』だの、『院内の電話は盗聴記録されている。』だの、どうでも

いいような噂には、枚挙にいとまがない。

 最後にこの病院でシーラカンスのように長く患者として住んでいるおじいちゃま

が話してくれたドラマのような語りを、俺の脚本で書いてみよう。

 

   *これはフィクションです