これが病院伝説だ(1)

 朝の清々しい外の空気を呼吸できる貴重な時間に、耳に入ってくる話が同様に貴

重なものだとは言えないが、開放的な空気の下では口も開放的になるようだ。狭い

社会の中にいると、その平凡な生活にある種の刺激を求めて、とかく噂話が謳歌

る。これは田舎だからとか、村社会に限られたことではなく、都市の中でも都市伝

説という名の非文明的な噂話が尽きることはなく、これもメディアによって拡散さ

れていく。それが限られた文明の中で極度に閉鎖された空間にいたのなら、それは

もう都市伝説の比ではない。しかも騒げばどのような報復が待っているか判らない

恐怖政治の凝縮された建物の中においては、静かな伝説として伝播していく。これ

から書くことは、俺の好奇心というアンテナが捉えたもっともらしい噂話だ。とは

いうものの、所詮どこにでもあるような噂にすぎない。

 

『あの看護婦と委員長はデキている。』

  このての噂話の不動なる大横綱級のものだ。

  ある看護婦は若い頃から委員長の愛人だった。だから一目置かれ誰も彼女には

  逆らえないらしい。

『この病院の地下には霊柩車を停める駐車場があるらしい。』

  これは病院あるあるの噂話だ。むしろ本当にあるような気がしてくる。

  それが精神病院の噂となると少し状況は変わってくる。この病院でも地下の秘

  密の駐車場に霊柩車が静かに停められ、そこへ通じる専用のドアから遺体が運

  ばれて、誰の目にも留まることなく深夜病院から出て行くそうだ。

 

   *これはフィクションです・・・ですが、まだまだ続く

早朝散歩の光景(2)

 この光景を同室のデブは毎朝3階から見ていた。デブは散歩に行かずに部屋の窓

から外を眺めながら、今日は誰が歩いている、今日は少ないなどと大きな独り言を

吐いていた。その時にはブラックはベッドで横になっており散歩には出ていない。

ブチは部屋にはいなかったが散歩には行かないようだった。

 外に出られるといっても、たったの15分程度だ。そのために外履きの靴を部屋

から用意して2ヶ所のチェックを受け階段を下りたり上がったりしなくてはならな

い。それでも外へ出て散歩したいという思うのか、そうまでして外へ出なくてもい

いと思うのか、その違いに年齢は関係ない。15分間の散歩を終えると、みんなド

アの所へ集合して呼ブザーを押す。「は~い」と応答があってしばらく待っている

と中から看護師がドアを開け顔を出しチェックする。その後は外へ出た時の逆回し

の要領だ。階段を上がり2階の連中と分れ3階の入り口前で再び呼ブザーを押す。

「は~い」と応答があってしばらく待っていると看護師が来る。「おかえりなさ~

 い」と言って名前を確認しながら中へ入れる。散歩の時間が決まっているのだか

ら、いちいち待たさないでドアを開けて待っておけよ、と俺は言いたかった。15

分の早朝散歩は心と身体の健康にいいだけでなく、いろいろな連中と接触できる貴

重な時間でもある。そこで俺はいろいろな話を聞くことになるのだった。

 

   *これはフィクションです

早朝散歩の光景(1)

* 前回は私の操作ミスで冒頭3行が抜け落ちていました。(その部分です)

 呼び止めたのは同じ入院冠者だった。彼はボールペンでノートに何か書いていた

ので散歩の参加者をチェックしているのだろう。でも彼のチェックが終わっても階

段ドアの所に看護師がいて一人ずつ出ていくのをチェックしていた。

 

 ともあれ俺はそれから3日間待たされた末、ようやく外へ出ることができた。な

ぜ3日間待たされたのか?その理由は看護部長がいなかったからだ。優秀な牧羊犬

ボーダーコリーは隣村まで羊を追っていく訳ではないだろうが、一応出張だと言っ

ていたのでそういうことにしておこう。看護部長の帰りをキリンのように首を長く

して待った俺はやっと待望の早朝散歩に参加できたのだった。

 3階で無事チェックを通過し階段を下りる時は、あまりの膝の痛さに手摺なしで

は下りられない程、体力が消耗していることを実感した。2階を通過する時、ドア

が開いて2階の患者たちと合流した。1階まで下りると案の定外へ出るドアの所で

看護師が1固体ずつチェックしていた。そこで部屋番号と名前を言って、やっと外

の世界へ出られた。もうすぐ4月だというのに早朝の外の空気は冷たくて、それが

俺には爽やかだった。1周約100メートルのグランドをみんな一緒に淡々と歩く

だけだ。別に整列はしていない。年老いたのも若いのもいる。ただ右回りはみんな

同じで3ヶ所に一応監視らしき者がいる。コースを外れると直ちに注意される。彼

らはボーダーコリーの子分なのだろう。コースの周りには桜の木もあればちょっと

した菜園もある。少しでも見に行こうとしたら戻るように声が掛かる。俺たちは羊

かい!いや豚だった。    

ビギナーズが終わった日(2)

 まさに養豚場の出荷チェックだ。しかも一件も見落とさないようにと厳重に行っ

ている。みんながそこを出ていったらドアが閉められ鍵が掛けられるのを俺は何度

もデイ・ルームから見ていた。一階から外へ出るドアの所でも同様のチェックが行

われているのだろう。俺はその最初のチェック時で呼び止められたのだ。なぜ名簿

に俺の名前が載っていないのか彼に問うても、自分は判らないから看護師に訊いて

くれと言う。それはそうだ。彼はただの患者だ。なんの権限もない。そこで俺は

スッポン・・いや担当看護師に訊いたら、看護部長の許可印が無いからダメだとの

答えだった。ここでは主治医の許可が出ても、そこから担当看護師の印が押され、

看護部長の印が押されてやっと全ての手続きが完了し成立するらしかった。まさに

豚の国外出荷並みの厳重なシステムだ。俺たちは豚か?もしかしてブランド豚?

まさかねえ、だがここはある意味で有名な病院らしいので、俺たちは立派なブラン

ド豚になる。俺はここで看護部長の強い権限を始めて思い知らされる日になった。

ちなみに看護部長は優しいおばさまという雰囲気の女性だった。だが人は天使とは

違う。見かけによらないのはどんな世界でも一緒だ。優しいボーダーコリー犬だっ

て仕事をする時は厳しく羊や牛の群れを管理している。老いた豚の群れなんて彼女

にとっては朝飯前だろう。そう俺たちはまさに囲いの中の豚なのだ。

ビギナーズが終わった日(1)

 俺が入院して12回の出席義務があったビギナーズ(初心者)ミーティングが

やっと終わったのは入院して約1ヶ月経った頃だった。日曜日以外の毎日行われる

このミーティングは通常なら2週間で終える。なのに1ヶ月も掛かってしまったの

は、別に俺が不真面目な患者だったからではない。むしろ好奇心溢れる俺にとって

この病院での生活は、決して居心地のいい所ではないものの、未知なる別世界へ足

を踏み入れたような感覚で、何事にも前向きに取り組んでいたつもりだ。そのこと

自体が不真面目だと思われていたのなら話は別だが、そうではなかったのだ。俺の

ビギナーズ・ミーティングの終了が遅くなったのはインフルエンザが院内で大流行

して約2週間院内の活動が全くなかったからだ。その間診察も行われず、一日中何

もしないで過ごしていたのだった。病気で、しかも大病を患って入院したのに診察

がないという大きな矛盾を自分の中でまだ感じてはいたが、それ以上に精神病院と

いう別世界で過ごしている今を受け入れるので精一杯だった。

 インフルエンザは収束に向かい、本来の院内生活が戻ってきたらしく(俺はその

 本来を知らなかったが)ビギナーズ・ミーティングもなんとか終えたのだった。

これでわずか15分程度だが朝の散歩で外に出ることができる。それが俺にはこの

上なく嬉しかった。

 翌朝意気込んでみんなと一緒に外へ出ようとした俺を呼び止める声がした。

「ヤマダさんは、名簿に名前が載っていないから外に出られないですよ。」え~、

なぜなんだ~?!戸惑う俺を尻目にみんなニコニコして階段の方へ向かっていた。

俺は本当に肝硬変?(4)

 外はすっかり明るくなり、院内もざわざわと次第に賑やかになってきた。

 俺は朝食を食べ終え、看護師たちが忙しくなる朝の検温、投薬等を済ませた頃を

見計らって、俺の担当看護師を見つけ、先生に相談したいことがある旨を伝えた。

それまでの時間の何と長く感じたことか。まるで恋人に会う前の待ち遠しさと同様

の時間経過だったが、その相手は同じ女性でも恋人とは天と地ほど違う。まるで美

しい月の下で泥沼にいるスッポンを捕らえるようなものだった。本来の待ち遠しい

相手は主治医であった。だが先生に相談したいとスッポンに伝えてからは、その待

ち遠しい相手に会うのが怖くなってきた。まるで嫌われるかもしれないと思いなが

ら憬れの女性を待ち伏せているような感覚に近かった。しかも院内のスッポンはな

かなか仕事ができるようで、すぐに俺の主治医がニコニコしながら「ヤマダさん、

 どうしましたか?」と部屋に入ってきた。主治医に会って自分の感じている疑念

を単刀直入に言おうと思っていたが、いざ口から出た言葉は切れ味鋭い単刀ではな

くフニャフニャしたシリコン製のしゃもじののようだった。俺はそれでメシトルど

ころか杓子定規な言葉でしか先生と話せなかった。

「先生訊辛いのですが、俺肝硬変ですよねえ?もう1ヶ月近く経っても投薬ばかり

 で先生の診察はほとんどないし、少しは恢復に向かっているのですかねえ。もち

 ろん先生を信用していますが、あまり治療らしいことが行われてないような気が

 するのですが・・・」と、弱気な言葉しか出てこない。これでは憬れの女性から

は見放されるのだろうが、先生は毅然として俺に言った。

「ヤマダさん、心配なのは無理もありませんが、毎週の血液検査の数値は素晴らし

 く改善してきています。本来はまだベッドで横になっていてもおかしくない状態

 だったのですよ。もちろんヤマダさんが頑張ってこられたから良くなっていると

 思います。だからもう少し身体を労ってやるつもりで休養してくださいよ。私も

 やまださんに効果のある薬を勉強しています。私は肝臓の専門医ではありません

 が、専門医以上に多くの患者の肝臓を診てきていると自負しています。ヤマダさ

 ん、もう少し一緒に頑張りましょう。」

 憬れの女性から一緒に頑張ろうと言われれば俺は当然頑張る。それを主治医から

言われたから・・・単刀直入ならぬ単純直情な俺は、主治医を信じてついていく決

心をした。

 

      *これはフィクションです

 

俺は本当に肝硬変?(3)

 明けの明星が輝きだした頃、闇夜がしだいにゆっくりゆっくり白々と明るくなっ

てきた。部屋の窓が東向きにあり俺のベッドがその窓側にあったことを感謝した。

起床の6時までまだ1時間ちょっとある。俺はこのまま窓の外の暁を見ておきたかっ

たが、同室のみんなに迷惑を掛けてはいけないので、そっとカーテンを閉め、静か

に仰向きになった。その時だった。ガサガサと無遠慮な音が響いた。それがデブで

あるのはカーテンが開く音の方向と足音でわかった。俺はトイレにでも行くのだろ

うと思った瞬間、部屋の静寂を切り裂く音にビックリした。デブは部屋に1つある

小さな洗面台で顔を洗いだしたのだ。しかも無神経な程の大音響でバシャバシャと

何度も洗っている。立派な洗面所がトイレの隣にあるにもかかわらずにだ。さすが

の俺も黙ってはいられなかった。起き上がってデブの立っている所へ行って耳元で

強い口調で囁いた。「みんなまだ寝ているんだし、起床まで時間があるのだから、

 もう少し遠慮して静かに洗ったらどうですか。」するとデブは「なあに、どうせ

 みんな起きるのだから同じ事だ。」と、意に介さず何度もバシャバシャと音をさ

せてフウ~と言いながらタオルで顔を拭いていた。これがデブ本来の性格なのか、

アルコールの後遺症なのか、病院生活のストレスからなのかわからないが、周りの

みんなもよく我慢しているものだと感心した。否、我慢できないで注意した俺の方

がおかしいのかもしれない。実際にこの病院の連中はよく自虐的に「どうせ自分た

 ちはアル中だから世間からみたら非常識なんだ。」と口にする。俺はそこまで自

分を卑下したくない。だが、デブではないが、これから俺は何をやっても、特に変

な事をするとアル中だからだと思われてしまうのだろうか。変なヤツという言葉が

褒め言葉だと思って生きてきた俺にとって、変なのはアル中だからだと思われてし

まうのは屈辱的だった。だって俺はただの肝硬変なのだから・・・では、なぜ俺は

精神病院に入院しているのだろう。そして俺の主治医は間違いなく精神科の医者な

のだ。俺は早く主治医である先生に会いたくなった。

 

     これはフィクションです