俺は本当に肝硬変(2)

 俺は闇の中で、この病院へ来たときのことを思い出そうとした。俺は精神病院へ

入ることに強い抵抗と観念との葛藤の中で、妻と一緒に俺の運転する車で病院へ来

た。ここで妻に付き添われてきたと言わないのも、俺の抵抗心からくるせめてもの

プライドだ。

 病院へ入って妻が受付で手続きする間、俺はソファに座っていた。そしてトイレ

へ入って戻ってくると妻はいなかった。。看護師から「奥さんは今、診察室で先生

とお話しされているので待っていてください。」と言われた。とても長く感じた。

妻が戻ると一緒に診察室へ入った。そこには30代の若い男の先生がニコニコしな

がら座っていた。俺は先生に、酒は止めたし演奏活動もしたいので入院はしないと

はっきり言った。妻は訝しいくらい完全に先生の見方だった。先生は俺にスランプ

の一つ、イプスの話をしてくれた。悪い状態の時の記憶が脳に残り、それにより意

識より脳が早く反応して再び悪い状態を引き起こしてしまう精神的な病で、最近知

られるようになったという。そして先生は俺と一緒にイプスを考えてみないか?と

話してくれた。俺は先生にうまく口車に乗せられてしまっていると思ったが、この

先生となら一緒に病気を治していきたいと前向きな気持ちになった。そうだった。

先生は精神科医だったのだ。俺の心を虜にするくらい朝飯前だったはずだ。その結

果として俺は病院のベッドで寝かされていた。その間の記憶が全く無いのだ。俺が

どうやって病院の1階にある診察室から鍵の掛かっている3階の病室へ運ばれたの

か憶えていない。もちろん妻と別れた記憶もない。もしかして注射か投薬で眠らさ

れたのかもしれない。疑心暗鬼は俺をどんどん闇の深みへと引き摺り込んでいく。

 

      *これはフィクションです

俺は本当に肝硬変?(1)

 俺は部屋に戻ってからその不安を口にすると、ブラックはさももっともらしく俺

に言った。「ここは精神病院だぜ。医者だって専門医ではないだろう。もしお前さ

 んが病気を本気で治したいのならここを出ていくべきだな。ここに居ると死んで

 しまうぞ。」確かにブラックの言うことは間違ってはいなかった。事実、俺の隣

で食事をしていたおじいちゃんは癌になって病院を出ていった。他にも昨日まで元

気そうだったおじいちゃんが今日は車椅子に乗せられて、食事も一人ではままなら

なくなっていた姿をこの目で見ている。俺の不安はより増長されていった。そこへ

デブが一言「あんたも早く退院したけりゃ、この病院ではおとなしくしておくんだ

な。」と吐き捨てた。俺は開いた口が塞がらなかった。ここは病院ではないのか?

まるで監獄の中の囚人と話してるみたいではないか。

 その夜俺は眠れなかった。疑心暗鬼が闇夜の不気味な壁の中から飛び出てきそう

な錯覚に何度も襲われた。(俺は本当に肝硬変だったのだろうか?主治医がいつも

 頼もしい笑顔で接してくれているのは憐れみの裏の顔なのだろうか?そういえば

 この病院へ来て2週間以上も経つのに主治医の診察はほとんどない。時々先生が

 やってきては腹や足を触診し、俺の顔色や目を見て笑顔で部屋を出ていくだけで

 治療らしいことといえば、毎食後服用される大量の薬だけだ。ここへ来てまだ数

 週間なのに自宅へいた頃が遠い昔のように感じる。俺は本当に肝硬変なのだろう

 か?)俺は気が狂いそうだった。朝の光が待ち遠しかった。俺はスーッとカーテ

ンを開けた。外はまだ闇の中だった。

 

      *これはフィクションです

院内の年寄りたち(5)

 数日経って、隣の席で食事をしているおじいちゃんも入院生活に少しは慣れてき

たようで、少しずつ食べ物も喉を通るようになったようだった。その頃の俺も入院

生活に慣れ、いろいろと耳にし口を利くようになっていた。俺はおじいちゃんに、

「少しは食べられるようになって良かったね。これでまた元気になれるよ。」と優

しく声を掛けたつもりだった。ところがこれがおじいちゃんの収束に向かっていた

負のエネルギーに火を注いでしまった。「うるさい!人のことはほっとけ。オレに

意見をするな!」と怒鳴られた。俺は「そう・・」と無表情を装って席を立った。

 俺は決して社交的なではないが、挨拶ぐらいは普通にできると思っている。だが

こっちが挨拶をしても反応がないか無視されたら、俺も良心的に無視するようにし

ている。つまり相手は話し掛けられるのが嫌なのだと解釈して、それ以後は空気の

ようにその相手と接する。そんな輩が院内に2,3人はいた。入院前の日課だった

早朝の犬の散歩の時よりは空気になってしまった輩ははるかに少ない。で、前出の

おじいちゃん、このまま俺にとって空気のような存在になってしまうのかと思いき

や、その後なぜか**さん、ヤマちゃんと呼びあう仲になったのだった。だが、そ

んな仲になって、そのおじいちゃんに癌が見つかって退院していった。病気になっ

て病院を 出ていったのだ。笑い事ではない。だってここは精神病院なのだから。

だとしたら肝硬変で入院している俺はどうなってしまうのだろうか?俺はにわかに

不安になった。

院内の年寄りたち(4)

デイ・ルームでの食事の時は各自の席が決められていたが、俺の席の隣は空席だっ

た。ある日そこへ新顔が座っていた。新顔といっても随分と古い顔立ちは、それな

りの人生を物語っていた。そして好好爺ならぬ我儘妖怪に化身していた。彼の口か

らは、ご飯は固くて喰えん、酢の物は喰わん、野菜はダメ、肉は固くて歯に引っか

かる、麺類は嫌いだと言いたい放題だった。それに朝食に付いてくるパンや牛乳も

受け付けずチーズも嫌いとなれば看護師たちも呆れ果てるしかない。匙を持とうと

しないおじいちゃんに看護師は匙を投げるしかなかった。俺はその隣でもっとラン

クが下の粗食を食べながら、おじいちゃんには同情していた。普通の人?だって精

神病院へ入ったら大きなショックを受けてしまう。ましてやこんなに元気なおじい

ちゃんがある日突然にこんな世界へ送り込まれてきたのだ。文句や愚痴の一つや二

つ言いたいだろう。だがその相手はここに居ないのだ。しかも電話も掛けられない

し家族との面会は2週間過ぎないとダメだとなると、おじいちゃんの沸き上がるエ

ネルギーの鉾先は当然目の前の、ちょっと旬を過ぎてしまった白衣の天使に向けら

れるのは当然だ。本物の天使が相手なら、後ろについている神様を意識して悪態を

吐くのも憚れるのだが、この病院の天使たちの後についているのはお医者さんだ。

それでも十分に効果がありそうだが、新顔のおじいちゃんはまだここの天使たちの

怖さを知らない。俺はおじいちゃんの負のエネルギーが少し収まるまで静観するこ

とにした。

 

       *これはフィクションです

院内の年寄りたち(3)

 俺は親父が亡くなる時、ありがとうの一言も掛けてやれなかった。だから毎朝、

まだ誰もいないデイケアに一人座っているこの好好爺を父親のように優しく挨拶し

軽く話しかけた。そんな好好爺も、彼と同室のヤツの話によると、時々夜中に起き

ては、迎えが来ると言いながらゴソゴソと荷造りを始めるらしい。もちろん誰も迎

えには来ない。俺はその話を聞いてからは、早朝彼に声を掛けるときは、まあるく

なった背中にも手を掛けた。「おじいちゃん、今日も早いねえ。」と。

 昼のデイ・ケアのホールでは、いつも車椅子で動いている上品なおばあちゃんが

目立った。彼女が90歳を過ぎていると知ったのは、初めて彼女と挨拶を交わした

時だった。おばあちゃんにとって自分の歳を伝えるのは挨拶言葉の一つのようだっ

た。おばあちゃんの歳は誰もが彼女から聞いて知っていた。彼女は食事の時間と自

由時間にデイ・ケアのホールでよく見かけた。いつも穏やかで上品な彼女を見てい

ると、院内はまるで「ひまわり老人ホーム」にいるような気がしてくる。そんな彼

女も院内ではストレスが溜まってくるのだろう。全員が揃う瞑想の時間に彼女はデ

イ・ルームに来るや否や小言が始まる。独り言ならまだしも、大抵はその矛先が対

面のおばあちゃまへ向けられる。瞑想時間中の静寂なデイ・ルームの空間で彼女の

声だけが響く。「カタカタとうるさいよ。瞑想は静かにするの。ほらまたカタカタ

 と机を叩いている。」すると誰かが怒鳴る。「静かにせんか!お前の方がうるさ

いんじゃ。瞑想中だろうが。」俺は心の中で呟く。「そんなお前もうるさいぞ!」

みんなそう思っているのだろうが沈黙を守っている。俺の隣に座っている寡黙そう

なヤツが俺に向かって囁く。「毎朝の行事だよ。これがないと一日が始まらない。」と。それ以来俺はそいつとよく話をするようになった。

院内の年寄りたち(2)

 もちろん元気のいい年寄りもいる。若いもんにはまだ負けられんとばかりに頑

張って自分で何でもやっている。そんな年寄りは当然ながら若いもんたちとも仲が

いい。ただその元気なエネルギーが歪な方向へ流れる年寄りもいた。その中でも一

番目だったのは食事の時だ。さすがにそのくらいの年寄りになると、配膳事にみん

なと一緒に列びなさいとは言われない。配膳車がデイ・ルームに着くや即、看護師

たちが率先して年寄りたちの席へ膳を運ぶ。だが、あれは食わんこれは食わん、マ

ズくて喰えんなどと言って看護師たちを困らせる。それでも看護師たちは甲斐甲斐

しくも「もうちょっと細かくしてあげようか」とか「これだけでも食べようや。」

と世話を焼いている。俺が家でそんな我儘を言ったら大変だ。どうなるか想像もし

たくない。だから看護師が年寄りに優しく接しているのを見るとなんだか心が温ま

る。給料を貰っているのだから当然だ、と思っている輩も多いのだろうが、給料を

貰ってもやりたくないと思っている人も多いはずだ。俺が想像したくなかった方も

その一人だ。だから俺は憎まれ口をたたかれても仕方がないなと思えてくる。

 俺は夜中はほとんど寝ていない。寝たい時に寝る生活習慣だった俺は、家ではテ

レビが子守歌代わりだった。子守歌は途中砂嵐を響かせようが朝まで歌いっぱなし

だった。そのテレビが部屋にはない。寝られないのは当たり前だ。俺は一時間おき

にデイ・ルームへお茶を入れに部屋を出る。早朝4時頃デイ・ルームへ行くと必ず

決まった席へちょこんと背中を丸めて座っている年寄りがいた。

院内の年寄りたち(1)

「ボクは、あの20分のDVDは本当に無駄な時間だと思いますね。看護師達がサ

 ボっているとしか見えませんよ。DVDだって古い映像でしょう。何十年も前か

 ら使っているんでしょうね。あの女の子なんて今ではボクよりずっと年上です

 よ。考えられないですよ。こんな旧態依然としたミーティングを繰り返しても

 仕方がないと思うのですがね。」ブチはかなり不満が溜まっているようだ。当

然だ。精神病院の中で満足しているヤツなんていないだろう。ましてはブチはま

だ若い。ただこの病棟の中では、ブチのように不満を膨らませているタイプと、

デブのように諦めていくタイプの二方向に偏っていくのだろう。俺は勿論前者の

タイプだ。だからブチには少なからずの好感が持てた。

 院内には圧倒的に年寄りが多い。俺の言う年寄りとは・・・そう、70歳代以

上だ。60代は大酒飲んでアル中になるような輩だけあってまだまだ若い。だが

年寄りと言っても一括りにはできない。一日中ほとんど動かないで物静かに過ご

している年寄りから、元気溌剌で存在感を誇示している年寄りまでいろいろだ。

ブラックが言っていたが、いつでも退院できる年寄りもけっこういるが、家族が

受け入れない者も少なくないそうだ。見舞いすら来ない家族も多いようだ。見舞

いには来るが、その目的は小遣い目当ての家族もいるらしい。人生の末路を垣間

見るようでちょっと切ない。明日は我が身か?

  

     *これはフィクションです