院内の年寄りたち(4)

デイ・ルームでの食事の時は各自の席が決められていたが、俺の席の隣は空席だっ

た。ある日そこへ新顔が座っていた。新顔といっても随分と古い顔立ちは、それな

りの人生を物語っていた。そして好好爺ならぬ我儘妖怪に化身していた。彼の口か

らは、ご飯は固くて喰えん、酢の物は喰わん、野菜はダメ、肉は固くて歯に引っか

かる、麺類は嫌いだと言いたい放題だった。それに朝食に付いてくるパンや牛乳も

受け付けずチーズも嫌いとなれば看護師たちも呆れ果てるしかない。匙を持とうと

しないおじいちゃんに看護師は匙を投げるしかなかった。俺はその隣でもっとラン

クが下の粗食を食べながら、おじいちゃんには同情していた。普通の人?だって精

神病院へ入ったら大きなショックを受けてしまう。ましてやこんなに元気なおじい

ちゃんがある日突然にこんな世界へ送り込まれてきたのだ。文句や愚痴の一つや二

つ言いたいだろう。だがその相手はここに居ないのだ。しかも電話も掛けられない

し家族との面会は2週間過ぎないとダメだとなると、おじいちゃんの沸き上がるエ

ネルギーの鉾先は当然目の前の、ちょっと旬を過ぎてしまった白衣の天使に向けら

れるのは当然だ。本物の天使が相手なら、後ろについている神様を意識して悪態を

吐くのも憚れるのだが、この病院の天使たちの後についているのはお医者さんだ。

それでも十分に効果がありそうだが、新顔のおじいちゃんはまだここの天使たちの

怖さを知らない。俺はおじいちゃんの負のエネルギーが少し収まるまで静観するこ

とにした。

 

       *これはフィクションです

院内の年寄りたち(3)

 俺は親父が亡くなる時、ありがとうの一言も掛けてやれなかった。だから毎朝、

まだ誰もいないデイケアに一人座っているこの好好爺を父親のように優しく挨拶し

軽く話しかけた。そんな好好爺も、彼と同室のヤツの話によると、時々夜中に起き

ては、迎えが来ると言いながらゴソゴソと荷造りを始めるらしい。もちろん誰も迎

えには来ない。俺はその話を聞いてからは、早朝彼に声を掛けるときは、まあるく

なった背中にも手を掛けた。「おじいちゃん、今日も早いねえ。」と。

 昼のデイ・ケアのホールでは、いつも車椅子で動いている上品なおばあちゃんが

目立った。彼女が90歳を過ぎていると知ったのは、初めて彼女と挨拶を交わした

時だった。おばあちゃんにとって自分の歳を伝えるのは挨拶言葉の一つのようだっ

た。おばあちゃんの歳は誰もが彼女から聞いて知っていた。彼女は食事の時間と自

由時間にデイ・ケアのホールでよく見かけた。いつも穏やかで上品な彼女を見てい

ると、院内はまるで「ひまわり老人ホーム」にいるような気がしてくる。そんな彼

女も院内ではストレスが溜まってくるのだろう。全員が揃う瞑想の時間に彼女はデ

イ・ルームに来るや否や小言が始まる。独り言ならまだしも、大抵はその矛先が対

面のおばあちゃまへ向けられる。瞑想時間中の静寂なデイ・ルームの空間で彼女の

声だけが響く。「カタカタとうるさいよ。瞑想は静かにするの。ほらまたカタカタ

 と机を叩いている。」すると誰かが怒鳴る。「静かにせんか!お前の方がうるさ

いんじゃ。瞑想中だろうが。」俺は心の中で呟く。「そんなお前もうるさいぞ!」

みんなそう思っているのだろうが沈黙を守っている。俺の隣に座っている寡黙そう

なヤツが俺に向かって囁く。「毎朝の行事だよ。これがないと一日が始まらない。」と。それ以来俺はそいつとよく話をするようになった。

院内の年寄りたち(2)

 もちろん元気のいい年寄りもいる。若いもんにはまだ負けられんとばかりに頑

張って自分で何でもやっている。そんな年寄りは当然ながら若いもんたちとも仲が

いい。ただその元気なエネルギーが歪な方向へ流れる年寄りもいた。その中でも一

番目だったのは食事の時だ。さすがにそのくらいの年寄りになると、配膳事にみん

なと一緒に列びなさいとは言われない。配膳車がデイ・ルームに着くや即、看護師

たちが率先して年寄りたちの席へ膳を運ぶ。だが、あれは食わんこれは食わん、マ

ズくて喰えんなどと言って看護師たちを困らせる。それでも看護師たちは甲斐甲斐

しくも「もうちょっと細かくしてあげようか」とか「これだけでも食べようや。」

と世話を焼いている。俺が家でそんな我儘を言ったら大変だ。どうなるか想像もし

たくない。だから看護師が年寄りに優しく接しているのを見るとなんだか心が温ま

る。給料を貰っているのだから当然だ、と思っている輩も多いのだろうが、給料を

貰ってもやりたくないと思っている人も多いはずだ。俺が想像したくなかった方も

その一人だ。だから俺は憎まれ口をたたかれても仕方がないなと思えてくる。

 俺は夜中はほとんど寝ていない。寝たい時に寝る生活習慣だった俺は、家ではテ

レビが子守歌代わりだった。子守歌は途中砂嵐を響かせようが朝まで歌いっぱなし

だった。そのテレビが部屋にはない。寝られないのは当たり前だ。俺は一時間おき

にデイ・ルームへお茶を入れに部屋を出る。早朝4時頃デイ・ルームへ行くと必ず

決まった席へちょこんと背中を丸めて座っている年寄りがいた。

院内の年寄りたち(1)

「ボクは、あの20分のDVDは本当に無駄な時間だと思いますね。看護師達がサ

 ボっているとしか見えませんよ。DVDだって古い映像でしょう。何十年も前か

 ら使っているんでしょうね。あの女の子なんて今ではボクよりずっと年上です

 よ。考えられないですよ。こんな旧態依然としたミーティングを繰り返しても

 仕方がないと思うのですがね。」ブチはかなり不満が溜まっているようだ。当

然だ。精神病院の中で満足しているヤツなんていないだろう。ましてはブチはま

だ若い。ただこの病棟の中では、ブチのように不満を膨らませているタイプと、

デブのように諦めていくタイプの二方向に偏っていくのだろう。俺は勿論前者の

タイプだ。だからブチには少なからずの好感が持てた。

 院内には圧倒的に年寄りが多い。俺の言う年寄りとは・・・そう、70歳代以

上だ。60代は大酒飲んでアル中になるような輩だけあってまだまだ若い。だが

年寄りと言っても一括りにはできない。一日中ほとんど動かないで物静かに過ご

している年寄りから、元気溌剌で存在感を誇示している年寄りまでいろいろだ。

ブラックが言っていたが、いつでも退院できる年寄りもけっこういるが、家族が

受け入れない者も少なくないそうだ。見舞いすら来ない家族も多いようだ。見舞

いには来るが、その目的は小遣い目当ての家族もいるらしい。人生の末路を垣間

見るようでちょっと切ない。明日は我が身か?

  

     *これはフィクションです

DVD鑑賞会の話

 部屋へ戻るとデブが俺に、初めて俺が参加したビギナーズ・ミーティングの感想

を訊いてきた。俺が実際に感じたことを適当な言葉で答えると、デブはちょっと驚

くようなことを言った。デブの話によると、DVDはビギナーズ・ミーティングにだ

け鑑賞するのではないらしい。12回あるビギナーズ・ミーティングで毎回DVDを

鑑賞させられるだけでなく、ビギナーズ・ミーティングが終わってから通常のプロ

グラムに入っても様々なミーティングが毎日行われるらしく、そのほとんどでDVD

鑑賞があるらしい。俺が「よくそんなにビデオが揃っているもんですねえ。」と嫌

味を込めて言うと、デブは「なにビデオは5本程度のもので、それを取っ換え引っ

 換えして見せているだけだよ。」と先輩面して言ったが、威張れた面ではない。

それに直視できる面でもない。俺たちの会話にまたしてもブラックが割って入って

きた。どうやら眠ることもできないくらい暇みたいだ。「どのビデオも似たり寄っ

 たりで、出演者もどれも一緒だぜ。俺なんかどのビデオも5回以上は見ているん

だぜ。」と自慢げに言ったが、こちらも自慢できた話ではない。そこへ珍しくブチ

が話に入ってきた。いつもカーテンが閉めてあっているかいないかわからないブチ

が、今はいたわけだ。ブチは片手でカーテンを開け顔を見せた。直視できるくらい

のいわゆるイケメンだ。片手には本を開いたまま持っていた。寝ながら読んでいた

のだろう。「この病院の患者がいつも入れ替り立ち替りなのだから、同じDVDを繰

り返し見せられるのは仕方ないでしょうね。」ブチは話ながら半身を起こし話を続

けた。ベッドの上には本が置かれてあった。参考書のようだった。

初心者ミーティング(4)

 DVDの内容、つまり夫が酒に酔って妻に暴力を振るう映像は、俺だけでなく、み

んなショックだったのだろう。何人かは自分に発言がまわってくると枕詞のように

「自分はビデオのような暴力は振るったことはないが・・・」と異口同音に言って

から喋りはじめる。それは俺も一緒だった。あんな暴力旦那とは違うぞと、まずは

言っておきたかった。ということは、俺もここにいるみんなと同じ穴のムジナだと

言っているようなもので、それはそれで歯痒かったが、それでも自分は暴力旦那で

はないと否定しておきたかった。だから自分の順番がまわってきた時には、同様の

枕詞から、俺はアル中なんかではなく肝硬変でここへ入ったことを告げてから感想

を言った。思ったことを素直に言ったつもりだ。ご飯ジャーが古くて懐かしかった

ことや公園でコリー犬が散歩させられていたことをだ。犬に関しては、今は小型犬

が人気で、特にトイ・プードルミニチュア・ダックスフンドなどがよく歩いてい

るし、柴犬も人気で豆柴という小型の柴犬もよく見かけていたと言ってやった。我

家にはグレートデンという50キロ以上ある大型犬がいることも、もちろん補足し

た。発言中は俺の正面に座っている何人かの顔を見ていたが、発言を終えて見た看

護師の形相は鋭くて怖くてこの世のものとは思えず、顔を逸らしたままでいた。み

んなの方を見ると場は完全に白けていた。俺はこの空気感は嫌いではない。ヘンな

ヤツ!というのは褒め言葉だと思っている。初めてのミーティングは退屈凌ぎには

悪くないなと思いながら部屋へ戻った。

初心者ミーティング(3)

 DVD鑑賞会が終わると看護師が言った。「今からみなさんにビデオ(年齢がビデ

 オ世代だとDVDでもこう言う)を見た感想を言ってもらいます。何でもいいかで

 率直な気持ちを聞かせてください。では左の廊下側から時計回りに順番で言って

 ください。」 俺はこの部屋へ入った時、なぜ看護師から窓側の空席に座るよう

に促されたのか、その理由が今理解できた。俺は廊下側から順番が回ってくるみん

なの話を参考にしようと、その時は素直に思った。

 みんなの感想は一様に似たようなものだった。自分はアルコール依存者なんかで

はない。だがアルコールによって家族に迷惑を掛けたので今は反省をしている。と

か、自分はアルコールで身体を壊してしまったので、ここで休養しながら回復して

いきたい、とかいうものだった。俺はそんな優等生ぶった感想よりもっと興味深い

ものを観察していた。それは看護師2人の言動だった。1人の看護師は患者が感想

を話す間ジッと発言者を観察するように見つめ、もう1人山積みされたバインダー

から一つ抜き出しては、発言者とバインダーを交互に見ながら、時々頷きながら何

やら書き込んでいた。けっして見て楽しくなるような事が書かれていないのは、そ

の看護師の表情に出ているし、バインダーの数が出席者の数と同じなのは、初心者

ミーティング参加資格者のほぼ全員が個々に揃っているということで、どうして参

加率が高いのかは、全てあのバインダーの中にあるのだろう。ようするにみんな早

くこの病院を出たいのだ。

 

    *これはフィクションです