なんとなくの一日

 ソプラノ歌手であるナタリー・デセイの大ファンだ。で4月に福岡で彼女の演奏会がある。当然行かないわけない。ところが1月に交通事故に遭って、いつどんな状態になるかわからないのでキャンセルした。だが思っていたより状態はいい。それでも不安はある。あとは誰かが一緒に行こうか、という後押しが欲しい。だがそれもない。ほぼ諦めていた今だった。昨晩帰宅した深夜、嫁さんが電話していて僕が帰宅すると突然電話変わるという、そしてスマートフォンを持たされた。それまでこんな連係プレーはなかった。それどころか電話するからと言っても電話に出ない嫁さんだったから・・。電話の相手は息子だった。話は成績が悪く留年になるという。もともと僕は電話が嫌いだ。相手の顔色が見えないで話をするのは苦手だ。だからそこで息子には言ってやった。デセイの演奏会に一緒に行こう。で電車の往復でいろいろ話しをしよう、っと。僕はただデセイの演奏会に行きたいだけなのかもしれい・・が、自分のその頃の精神的な状況を鑑みると、デセイの演奏会が中和剤になり話が進むといいと思っていたのかもしれない、いうような不安がある。だって息子は歌に興味はない。僕は昨晩、デセイの演奏会に一緒に行っていろいろな話をしよう!と言ったのが禁じ手だったのかと思う。だって本質は僕がその演奏会に行きたかっただけでは?・・ということか。でも、50年以上生きるとそんな事ばかりだと開き直ってもくる。