教養としてのゲーテ入門(2)

 僕は日本の音楽大学時代に副科として作曲を履修した。当時作曲という創作に憧れただけで3年間続けられたのは先生との相性が良かったのだろう。そこでは「自由創作」と「エクリチュール」なるものを平行して学んだ。「自由創作」は書いて字の如し自由に作曲するのだが、この自由というのが曲者だ。確か一番最初の課題は「詩を選んで歌曲を創る」というものだった。先生はみんなに、本当に熟考を重ねてその響きを導き出したのか?とよく言っていた。事実みんな(6名)四苦八苦しながらダメ出しされながら少しずつ音を紡いでいった。毎週あんまり曲調が変わらない者もいた。それが自由なのだろうが、そんな輩は一年で作曲の履修をやめていった。僕がとても興味を持ったのは「エクリチュール」だった。「エクリチュール」は作曲家の模倣なる曲を作る。半年に1回、指定の作曲家のエクリチュールピアノ曲を作った。最初はJ.S.バッハでその次がベートーヴェンだったと記憶している。その後シューマンラヴェルドビュッシーだった。本来はその作曲家の作品を研究分析してその作曲家の曲想のように作るのだが、当時の僕にはそのような時間と能力もなかった。それでどうしたかというと、出題の作曲家の曲を出来るだけ多く徹底的に弾いた。勿論ピアノ専攻でない僕が弾ける曲は限られる。それでも曲はけっして少なくない。要するに難しい曲が出来ないだけだ。それでもよかった。何故なら作った(エクリチュール)曲が難しかったら僕自身ピアノで弾いて善し悪しが確かめられない。何よりもそのエクリチュールをしていた時間が本当に楽しかった。部屋に籠もって「僕はベートーヴェンだ。」と言い聞かせながら曲を作り、それを客観的な自分が、これはベートーヴェンではなかろう、とかこれはベートーヴェンの弟子の弟子ぐらいだな、などと判断しながら作る。やり直してもやり直してもうまくいかない。でももともと作曲でも正解がない世界なのだ。だから先生から「山田君、もうちょっとやり直そうか!」と言われても、僕は「は〜い!」と本心嬉しく返事する。いよいよ困ったらベートーヴェンの特徴ある部分を継ぎ接ぎ(コラージュ)する。その曲はなんとなくベートーヴェンに近づけるが先生からは、あの曲やこの曲がまぜこぜになって作品になっていない!と論破のレベルまでもなくやり込められる。僕は「やっぱりバレたかあ・・」と講師室を楽しく後にする。さてその時に学んだエクリチュールという忘れかけていた言葉だが、思いがけずゲーテ入門本に出ていた。恥ずかしながら30年以上の年月を経て本来の意味、そして意味の深さを知った。