モーツァルトのホルン協奏曲


 上質のドラマや映画を見ると上質なワインを飲んだ気分になる。上質なワインを飲む機会なんて皆無な僕は上質なドラマを見ながら安物のワインを飲みながら脳を錯覚させるのが精一杯だ。
 上質なワインは、恐らくだが・・余韻が残るのだろう。先日素晴らしい「英雄」を聴いた僕は今日もまた散歩しながら頭では「英雄」が鳴っていた。ところが第3楽章で曲想が変わってしまった。「英雄」の第3楽章の途中で3本のホルンのアルプスのような響きが表れる。当日の演奏も見事だった。ホルンは難しい楽器だ。他の楽器で普通に楽々と吹ける旋律もホルンで演奏するのは難しい。実は当日の演奏会の前半のプログラムにはモーツァルトのホルン協奏曲第2番もあった。大変見事な演奏だった。当たり前ではある。見事に演奏ができなければ協奏曲はできない。でもそれを知らなければ、何故モーツァルトが同じ管楽器であるフルートやオーボエに比べてホルンは短くてシンプルなのだろうと思われても仕方がない。ただ、当日のお客さんはよく知っていて拍手喝さいだった。
 僕に責任があるのだろうが、嫁さんと息子には本当に上手なホルンばかり生で聴かせていた。だから、高校生のレベルの演奏やアマチュアの演奏で、僕が「ホルンも頑張っていたよねえ!」と言っても嫁さんは、「どこが頑張っていたのよ。だいたいあなたはホルンは難しいんだってよく言うのだけど聴いてる人にはその違いはわからないのよ。ホルンを甘やかさせているのよ。」と言う。ホルンの人、すみません!僕の嫁さん、ど素人だけど息子の影響でクラシックを鼻歌にして料理をするような人間だ。僕がよくからかって「全国でマーラーを口ずさみながら料理する主婦はそんなにいないだろうな。」と言う。話は大変脱線したが、だからこそホルンの素晴らしい演奏を聴くと大変感動する。話の脱線ついでに、これはその業界では当たり前だと思ってやっていても、世間の非常識もあるのだろうなって思う。またその逆もあるのだとも思う。つまり世間は凄いなと絶賛しても、その業界ではそのロジックのまやかしがわかってしまっている、なんて事が・・・最近のニュースを見るとそう思えてくる。
 昨日はルナピンスキーは張り切って散歩したが、今日は僕の事情で朝夕の散歩を兼ねて昼下がりのまったりとした公園での短い散歩になった。そうか、だからモーツァルトのホルン協奏曲だったのだ。