ベートーヴェンの後期3大ソナタ


 ベートーヴェンの後期の3大ソナタは格別な、そして豊饒な音の連なりに酔いしれる真の名曲だ。
 去年、ツィメルマンの演奏を聴いた。正直言って、彼の実力なら・・・という期待もあったが、失望させる演奏ではなかった。ただ・・・そんなに長くないソナタ(せいぜい一曲が20分程度だろう。)で、その一曲一曲に休憩をとったツィメルマンのその意図は理解できた。が、その休憩に雑踏の中でビールを飲んでいた自分の所業が悪いのだとしても、多くの凡人がそうだとしたらその演奏会の構成はいかなるものだろう?・・・と、今ではじわじわと感じている。つまりベートーヴェンの崇高な魂の最後のピアノ作品があれにあるのなら・・・そして僕をはじめ多くの凡人にその高貴な作品を伝える伝道者としてのピアニストがその役目を果たさなければいけないのだとしては、やはり伝道者は独りよがりであってはいけないなのだなあ・・・と今では少し感じている。
 こんな大きなテーマを発信して、何故今からこんな小さな事を発信するのか?と自分でも思う。では止めたら、という気持ちもあったが、僕はいつもこの時間は酔っている。それに免じてっという甘えはいつも持っている。だからいつも言っているではないか、僕は幼稚だと!そう卑下すればすむと思うなよ!という声もいつも聞こえてくる。すみません。
 さてさてさて、 僕にとって貴女の最後の3通の手紙は僕にとってのベートーヴェンの最後の3つの作品そのものですよ。ソナタで例えれば『ハンマークラーヴィア』みたいな気負いは当然ないんだ。で、僕は素直にその言葉の重みを今は感じています。ただ、それがなぜ30年前ではなかったのか?というのは、ベートーヴェンの後期ソナタが当時にどれほど評価されていたか?・・・いやいや楽聖に対してそんな不遜な発言はいかがなものか・・・・・・僕は本当に酔っています。
 思えば今月突然に僕のもとにソナタ形式の主題提示部があったのだった。そして僕は展開部に苦心した。結果、このソナタの再現部は絶対に無いのだ確信した。僕はA型だから、しかも学生時代作曲も勉強したものだから、どうしてもなんとかいい曲をを書こうとしていたのかもしれない。これからは気ままにエピソード的な曲を、しかも思い付くままに書ければいいのだと思う。
 ただただ、僕にとって2014年の3月は一生忘れない強く思い出に残る月になった。それがたった1カ月の事だけど、僕にとって主題提示部の理解がどれだけの時間がかかった事か・・、そしてどれだけの展開部の広がりを意識させたか!それ自体が自分にとってまさしく奇跡だと・・・僕は思っています。