第三幕第一場(2)

 その初老の男は仕込みで忙しい開店前の夕方、突然店に入ってきたそうだ。
「ちょっと邪魔してごめんな。思っていたより大きい店だねえ。マスター一人でやってるの?」
「基本的にはそうです。」
「そう、この店何人位入れるかねえ?」
「カウンターが一〇席と、二人掛けのテーブルが二つありますよ。」
「一〇人は集まるだろうから十分だな。今度ここで宴会をするからよろしくな。」
「そうですか、ありがとうございます。いつのご予定ですか?」
「いや、まだ決まってないけど、わしが幹事だから大丈夫。また来るからよろしくな。ところでお願いがあるのだけど、嫌だったら断ってくれていいからな。」
「なんでしょうか?」
「いやちょっとなあ、母親が倒れて今から急いで病院へ行かなくてはならんのだ。急な話だったのでお金を持ち合わせてなかったんだが、なあマスター、5000円でいいから貸してくれないかなあ。明日すぐ返しにくるから貸してもらえんかなあ。でも嫌だったらいいんだ。」
 赤ハリ先生の話の途中だったが、私が思わず赤ハリ先生に訊いた。
「それで赤ハリ先生はその男に5000円貸したのではないでしょうね?」
「だって大切なお客さんですよ、勿論貸しましたよ。宴会の予約もしてくれましたし、その時に返してもらえればいいと思いましてね。」
 タア子も私と同じように思ったようだ。
「赤ハリ、バッカじゃないの。その客もう来ないわよ。初めから5000円が目的だったのよ。」
「そう言い切ってはいけませんよ。そんな悪い人には見えませんでしたよ。第一、嫌だったら貸してくれなくてもいいと、何度も私に言ってましたから。」
「だから団体の予約を餌にしたんだよ。そうしたら欲に目がくらんだ赤ハリが、きっと金を貸すだろうと策略したんだよ。だって母親が急に入院したんだったら、暢気に店の下見に来る訳ないじゃない。その事自体が矛盾しているじゃない。きっとその客は二度と来ないよ。」
 タア子の見解は正しかった。その日以来その客が『赤いはりねずみ』に現れる事は二度となかった。
(この小説はフィクションです。)