アンナと老マエストロ(8)


 老マエストロがすぐに反応した。大声で
「誰じゃ!誰がそこにいる?」と叫んだ。
「すっ、すみません。パオラです。」
 すると、スーとドアが開いて、彼女が顔を見せた。今まで二人の話を聞いていたのは、蒼白な顔色と震える唇でわかった。
「キャラが、アンを一人残しては心配だから、私に残れと言って帰ったの。で、ここへ入ろうとドアノブに手を掛けたら・・・ああ、私ったらなんて恐ろしい話を聞いてしまったのだろう・・・」
 アンナはパオラに優しく言った。
「聞いていたのがパオラでよかったわ。今の話はキャラには内緒にしておきましょう。」
「ええ、もちろんよ。でも、アントニオがそんな恐ろしい人間だったなんて信じられない!人間不信になっちゃいそうだわ。」
「アントニオさんが悪いのではないわ。この街があんな人をつくってしまうのよ。彼はキャラの前では聖人でありたかったのよ。パオの前でもね。」
 老マエストロが重たい口を開いた。
「そうじゃ、彼はヴェネチアの申し子なのじゃ。そしてお前たちも、このヴェネチアで生きているのだ。だからこれは運命なのじゃ。」
そう言いながら、泣いているパオラの肩を優しく抱き、片方の手でアンナの肩を寄せた。そして、二人の肩をポンと軽く叩くと、
「もう帰りなさい。外はもう暗くなった。」
と言ってドアを開けて二人の娘を送り出した。
 その時、アンナが老マエストロに訊いた。
「それでは、私の推理は正しかったという事でいいのですね?」
 老マエストロは無言だった。だがアンナには、老マエストロが微かに肯いたように見えた。
「ヴィヴァルディ先生は、彼の事をすべてご存じなのでしょうか?」
 これもまた無言だった。
「ストラド、あのヴァイオリンを一生大事にしますわ。明日の演奏をあなたに捧げます。」
アンナはそう言うと、パオラと一緒に部屋を出た。
 二人は重たい空気を背負いながら、無言でピエタへ帰った。入り口でデンがシッポを大きく激しく降って二人を出迎えた。