ストラドの茶飲み話(4)


(さあ、逃げましょ、逃げましょ)
 少し間があって、パオラが訊いた。
「ニスの秘密は、あの〜辰砂っていうやつではないの?」
 老マエストロは意地悪な笑みを浮かべた。
「それはただの色付けじゃ。わしのニスにはもっと大きな秘密が隠されておる。これは誰にも教えていない。ヴィヴァルディ君にもだ。お前たちが考えてみるといい。
 それよりアン、わしが次にヴェネチアに来る時には、わしの往年の名器と変わらないヴァイオリンをお前さんに持ってきてやろう。キャラのヴァイオリンのように、全ての行程を私自身の手で作り上げて見せよう。
 それからパオ、もしもニスの秘密がわかったら、お前さんにはわしがバッソンを作ってやろう。」
老マエストロはパオラに向かって真面目に言った。パオラはあまりにも以外で唐突な話だったので唖然としていた。老マエストロは続けて言った。
「わしはもともと木彫り職人だったんじゃ。バッソンを作るなんてちょろいもんさ。それよりもバッソンの内部にそのニスを塗ると、凄くいい音になると確信しておる。今のバッソンよりも、もっとチェロに似た音が出るはずじゃ。オーケストラの中でのバッソンの役目が変わってくるぞ。それよりもオーケストラそのものが変わってくるかもな。ヒャヒャヒャ。」
「それも含めて、全ての秘密はその特別なニスにあり、なのですね?」
アンナが静かに言った。突然にパオラが大きな声で叫んだ。
「デンが逃げていくわ!」
 皆がパオラの指した先を見た。その方向には確かにデンの後ろ姿があった。それは逃げたというようより、お散歩のようにフラフラと出かけたという様子だった。しかもリードを引きずりながら暢気に歩いていた。
「アンお母様、デンお坊ちゃんが逃げていますよ。不良少年を補導しなくていいのですか?」
パオラが笑いながらアンナに言った。
「まったくしょうがない仔ね。まあデンの行く所はわかっていますからご心配なく。私はついでにデンと一緒にそこら辺をブラブラしてピエタに帰ります。」
皆にこう言い残したアンナは、席を立ってデンを足早に追いかけていった。アンナは自分がこの場にいない方がいいのだと察していたのだった。
 アンナがいなくなったテーブルで、老マエストロは意地悪そうに笑いながら言った。
「シッシッシ、実は密かにあのバカデカ犬の尻を何回か蹴飛ばしてやったんじゃ。」
「あっ、ストラドったらひど〜い。それでデンは逃げてしまったのね、可哀想に。」
「しかたがないではないか。アンに聞かれない方がいい話もある。あの娘はわかっているよ。」
「ストラドもすっかりアンの性格を見通せられるようになったようね。それでは先程の私の質問に答えてくださるわね。」