ピエタに孤児犬が来た(1)


(こんな感じの仔犬かなあ?)
 そこには既に何人も集まっていて騒然としていた。アンナとパオラはその小さな人垣の中に割って入って、横になっている仔犬を見た。
「こ・・・これ・・・これが仔犬?」
「これって牛の仔じゃないの?」
 アンナもパオラも、目の前の仔犬が自分たちの想像とあまりにも違っていたので、二人は狼狽した。なぜなら目の前の仔犬は、その辺をウロウロしている犬よりもずっと大きかったのだ。
「これはドイツ原産の大型犬の子どもだ。」
 アンナがその声の方を見ると、合唱長がそこに立っていた。合唱長の話によると、数日前の嵐でヴェネチア沖を航行していたデンマーク王国の船が難破したようだ。乗組員は全員行方不明でおそらく全滅だろうとの事。この可愛い仔犬だけがヴェネチア港に流れ着いたそうだ。流れ着いた時はかなり衰弱していたが、餌を食べてすぐに元気になったので、ここへ連れてこられたという訳だった。聖マルコ大聖堂の大司教から、この仔犬も同じ孤児である事だし、女子を守る番犬にもなるだろうから、ピエタ慈善院で飼うようにと言われたのだそうだ。親犬もいたと想像されるがまだ行方不明で、おそらく助からないだろうとの話だった。
「どう、可愛いでしょう?垂れた大きな耳もアーモンドのような大きな目もキュートでとっても素敵でしょう。この茶色い短毛なんかベルベットのように気持ちがいいのよ。」
 いつの間にかキアーラが来ていて、仔犬の横胸を撫でながら言った。
 合唱長はキアーラを確認すると、あとはよろしくと言って去っていった。
「なにが『キアレッタ君、あとはよろしく』なのかしらねえ?」
パオラが合唱長の口調を真似て茶化したように言うと、キアーラがたしなめるように、
「パオ、よろしくとはこの仔のお世話をしなさいっていう事よ。なんならパオがしてみる?」
「いやよ、だってこの仔、すご〜く大きくなるのでしょう?華奢な身体の私がこの仔の面倒をみられる訳ないじゃない。」
「パオ、それって笑えないわよ。ここにいる皆は華奢なあなたよりもっと華奢よ。もちろん皆でこの仔の面倒をみるとしても、誰かが専属的にみてやる方がいいわ。その方がこの仔の躾にもなるしね。」
キアーラは周りの人たちを見ながらそう言った。
 話の渦中にある当の仔犬は、寝そべって長い後ろ足で耳を掻いてみたり、大あくびをしたり全く暢気なものだった。
 キアーラはその様子を見て苦笑しながら、
「この中で犬の世話をした事ある人いる?」
と、周りを見まわしながら訊いた。
 すると、オーボエのクララが答えた。
「私ね、ずっと犬を飼っていたのだけど、成犬でもこの仔の10分の1の大きさだったから自身がないなあ。」
「はいはい、わかっているわ。クララにはお願いなんかしないわよ。だってこの仔、あと半年もすればクララよりずっと大きくなるのよ。他に誰かいないかなあ?」
 キアーラの困った顔を見て、アンナがそっと手を挙げて言った。
「私がお世話します。以前父と兄が大きな狩猟犬を飼っていたの。べつに私がお世話した訳ではなかったのだけど、その犬たちは私が小さい時からなぜかとてもなついていたの。だから大きな犬には馴れているわ。」
 アンナがそう言うと、暢気な孤児犬の前に立って、毅然とはっきりした命令口調で言った。
「さあ、立ちなさい!」
 仔犬はきょとんとしてアンナを見ると、大あくびをしながらゆっくりと立ちあがった。そして頼みもしないのに、アンナにピタッと身体を寄せつけてきた。
 それを見てキアーラが、
「これで決まりね。アン、この仔のお世話をお願いね。皆もお散歩とかでアンを手伝ってあげてよね。あとアンがこの仔の名前をつけても構わないわ。じゃあよろしくね。」
そう言うと練習部屋へ向かった。キアーラの後を追うように皆も練習部屋へ消えていった。
 最後にパオが残った。
「アン、困った事があったら、私に何でも言ってよね。いつでも協力するわよん。」
 パオラもそう言い残してその場からいなくなった。