謝肉祭の恋人


(山田家の恋人よ)
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 わずか5歳でピエタにきたキアーラにとって、5歳年上のアントニオは彼女の心の支えだった。16歳でアントニオがピエタを出ていっても二人の関係は変わらなかった。二人の関係はその後も長く続いた。もちろんその間に二人は、兄弟のような関係から恋人の関係になった。だからこそキアーラはピエタで頑張る事ができた。だがアントニオは23歳の時、他の女性と結婚してしまった。当然キアーラは絶望した。だがアントニオを忘れる事も失う事もできなかった。キアーラはアントニオが結婚しても、まだ彼を愛していたのだった。ヴェネチアの街は、そのような恋人たちにとって世界一優しい街だった。
 ヴェネチアの謝肉祭は、全ての恋人にとって平等だった。謝肉祭の中では、いや謝肉祭で被る仮面とマントの中では、あらゆる男も女も身分や立場から解放された。キリスト教的倫理観や道徳観までもが仮面やマントの中まで及ばなかったのだ。だから全ての恋人たち、あるいはその日限りの恋人たちまでがヴェネチアの謝肉祭を謳歌した。
 キアーラは黒い仮面に黒いマントを被り、白いヴェールを羽織った。これは当時の若い女性のいわゆる正装だった。だからキアーラは周りの人から顔を見られずに、アントニオから自分だとわかってもらえるようにした。仮面に少し手を加えたのだ。黒い仮面の額から左頬にかけて金色で太く塗り、そこへ楽譜を書き入れた。ヴェネチアの謝肉祭では音符や楽譜が書かれた仮面など珍しくなかった。だからキアーラは、その仮面の金色の部分に書く楽譜を【調和の霊感】から2つのヴァイオリンの為の協奏曲の一節にした。これなら他にない唯一の仮面になるし、楽譜が読めるアントニオにとっては容易に仮面を被ったキアーラを見つけられるはずだった。実際にキアーラは、その仮面を被って思い出の場所に立っていれば、アントニオから声をかけてきた。
 キアーラとアントニオの謝肉祭限定の祝福された関係が4年間続いたある日、その事件は起きた。その事件はキアーラ自ら起してしまった、というのが正直な話だろう。