アントニオのゴンドラ(3)


(これはゴンドラじゃあないよ)
 アントニオは、キアーラがいい仲間と暮らしている事が嬉しかった。その彼女を諦めなくてはならなかった葛藤と後悔。そして、これから結婚する女性への誠実さと不実への自問自答。それらの思いが、複雑なラグーナの潮の流れのように脳裏を迂回した。アントニオは沈黙する事しかできなかったのだ。
 こんな少女がキアーラの為に泣いている。それなのに自分はいったい何をしているのだろうか?キアーラから逃げ、この少女から逃げて、本当に幸せな結婚ができるのだろか?
 アントニオは、誠実にこの少女と向き合う事にした。
「パオラさん・・・」
 アントニオは、静かに話を始めた。
「俺はキャラの事が嫌いになったのではないのだ。むしろあいつの事は今でも本当に愛しているのだよ。」
 パオラは、自分の事を『パオラちゃん』ではなく『パオラさん』と呼んでくれたアントニオにとても好感が持てた。だから彼の口から発せられる言葉を、パオラは素直な気持ちで聞く事ができた。
「彼女がピエタに来た時、俺はまだ10歳だった。パオラさんは知っているだろうけど、ピエタでは男は16歳になったら出ていかなければならない。俺ももちろん出ていく覚悟はできていたのだ。」
「キャラが、いやキアーラ姉さんが、アントニオさんはテノール歌手として歌劇場で仕事をするはずだったけど、それが駄目になって造船所で働き始めたのだ、と言っていたわ。」
「さすがキャラの妹分だ、よく知っているねえ。でも彼女が君に言った事は少しだけ違うんだ。ねえパオラさん、カストラートという歌手を知っているかい?」
「ええ、なんとなく聞いた事があるわ。テノールよりも高い声域を魅力的な声で歌う男性歌手の事でしょう。カストラート歌手は大変人気があるのよねえ。」
「ではどうしたらカストラート歌手になれるのか、君は知っているかい?」
「いえ、詳しくは・・・」
「そうだろうね、カストラート歌手になるには男のアレを取らなければならないのだ。アレってわかるよね?少年時代にアレを取ると声変わりをしなくなる。そのまま成長すると少年のような美しい声に、大人のような深い呼吸と声の張りが備わってくるのだ。カストラートテノールを凌ぐほどの声質と人気を誇っているのだよ。でもアレを取ると、その傷口から感染症にかかり亡くなってしまうようなケースも少なくないのだ。
 俺は12歳の時からずっと、ピエタの合唱長からカストラートになるように勧められてきたのだ。カストラートになれば歌劇場で活躍できると言われてきた。
 俺はずっと悩んでいた。はじめは歌手としての人生を歩みたい、という気持ちよりも、アレを取ってしまう怖さの方が強かった。もちろんピエタの合唱団で頑張って歌えば、テノール歌手としての道が開ける可能性もあるかもと考え、合唱長に相談した事もあった。だがその答えは俺にとって非常に残酷なものだった。貴族の出身でない俺が歌手になれる選択肢はカストラートしかないと、きっぱり言われたのだ。
 そうして悩んでいるうちに、いつのまにか15歳になっていた。そんな時に、いつのまにか自然にあいつと親しく話をするようになったのだ。」
「キアーラ姉さんですね?」
「そう、彼女はまだ10歳だった。本当に可愛かった。何かあるといつも俺に相談してきた。お兄さんみたいだと言っていた。俺も妹のように可愛がった。そのうち俺は、あいつに対して妹以上の感情を持つようになったのだ。そうなったらもう、男でなくなってまで歌手になろうとは思えなくなった。当然、テノール歌手になる努力はしたが、やはり合唱長の言うとおり、俺が歌手になるにはカストラートの道しかなかったのだ。まだ11歳のあいつに、カストラートの話はできなかった。結局、俺はピエタを出て国営造船所で働く事になった。他の仕事も興味があったが、あいつのすぐ近くで働きたかったのだ。
 そんな俺の所へ、あいつはよく訪ねてきてくれた。そしてピエタの話を楽しく語ってくれた。俺もピエタの事はよく知っているので、彼女の話はとても懐かしく、そして楽しかった。俺はあいつがいるだけで、あいつの笑顔を見ているだけで幸せだったのだ。だってあいつは、つらい事や悲しい事も俺の前では笑って話してくれた。」
「そうなのよ。キャラは私の前でも、いつもそうだった。ねえ、アントニオさん。そのキアーラ姉さんが今ピエタで泣いているのよ。」
 パオラはそう言うとまた涙を流した。