キアーラの恋人アントニオ(6)


(はあん、アントニオ?)
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 その時アンナの耳に、聞き覚えのある声が入ってきた。この不快でないテノール・・・ああ、あの声は・・・私をゴンドラでヴェネチアにまで乗せてきてくれた大男だわ。あの時は薄暗かったので、ほとんど顔に覚えはない。でもこの声の主がわかれば、その男の顔や体型などで、どのゴンドラに乗ってきたのかが、今ならわかるかもしれない。
 アンナは、自分が夜の暗闇の中でゴンドラに乗せられて海を渡ってきた事を、パオラに話しながら声の主を捜した。何十隻ものゴンドラが辺りに停泊していた。声を張り上げて歌っているゴンドラ漕ぎも大勢いた。しかしアンナの耳ならば、独特なテノールの声の主を捜すのは容易なはずだった。もっともそれは、彼が歌うのを止めなければだが。
 声の主は意外に遠かった。パオラがアンナのその聴力に感心していたその時、アンナは静に言った。
「いた。あの男だわ。」
 パオラは、自分だったら大声で叫んでいただろうなあ、とアンナの冷静な性格にも感心しながら、アンナの指先の方向を見た。たくさんのゴンドラから焦点を絞っていく・・・
「あ〜っ!」パオラはやっぱり大声で叫んだ。
「アッ、アンナ・・・あの男よ。あの男がキャラの恋人だったアントニオさんよ。」
 アンナは「えっ」と、静かに驚いた。
「とにかく逃げましょう。」
と言って、パオラはアンナの手を引いて急いでその場を去った。
 逃げるのは簡単だった。相手は海の上だ。海から離れたらそれでよかった。あとはゆっくりと歩いて行くだけだ。
 アンナは「なぜ逃げるの?」という疑問を口にできなかった。なぜなら、パオラの困ったような真剣な形相がアンナの口を制したのだった。