プレーテ・ロッソ、ヴィヴァルディ(2)


(もしかしてアントニオ・ヴィヴァルディ?)
 当時、孤児院であったピエタを支えていたのは、国や貴族からの多大なる寄付や援助であった。また、ピエタの『合唱の娘たち』や『合奏の娘たち』の演奏会も重要な収入源になっていた。ヴィヴァルディがピエタに来てから、確実に『合奏の娘たち』の技術は向上した。そして彼は、演奏会の曲を彼女たちの練習曲として日常的に課したのだから、彼女たちの上達と同時に合奏団のレパートリーも増えていった。しかも、華麗なる技巧と自由奔放な独奏を伴った協奏曲は、ヴェネチアで大人気になっていた。そして、多くの外国の観光客が、ピエタ慈善院の『合奏の娘たち』や『合唱の娘たち』の演奏会を目的に、ヴェネチアへやって来た。
 そうなってくるとヴィヴァルディの音楽を快く思っていない人たちも、しかたなく静観するしかなかった。ヴィヴァルディはますます意欲的にピエタ合奏団の指導に励んだ。そしてさらなるヴァイオリン協奏曲の創作に励んだ。
 ヴィヴァルディは、最初のうちこそ周りの目、すなわち教会関係者のご機嫌を伺ったような合奏協奏曲風な作品を創ってみせた。それでも全く同じ事はしたくなかったので独奏部を4人のヴァイオリン奏者にした。その協奏曲を4曲創ると、今度は独奏を2人のヴァイオリン奏者にした協奏曲を4曲創った。そして、いよいよ彼が一番作曲したかった、一人の独奏ヴァイオリンの為の協奏曲を4曲創作した。こうして、12曲のヴァイオリン協奏曲が揃ったのだった。ヴィヴァルディはその曲集にタイトルを付ける事にした。皆が好むような言葉を使ってみた。教会関係者に迎合したのではない。むしろ嫌味を込めてみたつもりだ。12のヴァイオリン協奏曲集【調和の霊感】は、こうして生まれ世の中へ出た。