プレーテ・ロッソ、ヴィヴァルディ(1)


(私は赤い服よ)
 ヴィヴァルディは、いつの間にかプレーテ・ロッソ(赤髪の司祭)というあだ名が付けられていた。はじめは誹謗中傷の意味も込められていた。それはヴィヴァルディの作品や、ピエタでのやり方に否定的な『合奏の娘たち』、特に年配の娘たちらが付けたあだ名だった。
 確かにヴィヴァルディは赤い髪だった。それは染めていたからではない。彼のお父さんも聖マルコ大聖堂で赤髪を振り乱してヴァイオリンを弾いていたのだった。
 『司祭』については半分正しく、半分間違いだった。ヴィヴァルディは確かに司祭の資格を持っていた。しかしヴェネチアの人々の誰もが、彼がミサをあげている姿を見た事がなかった。だから司祭という言葉には皮肉以上の感情も込められていた。
 ヴィヴァルディに対する反発は『合奏の娘たち』だけではなかった。ヴィヴァルディを擁護してきたガスパリーニ合唱長をはじめ教会の枢機卿や大司祭までもがヴィヴァルディの音楽、特に協奏曲に否定的だった。当時は合奏協奏曲のように調和された弦楽合奏の響きが好まれていた。。ヴィヴァルディの協奏曲のように、弦楽合奏の美しい響きの中を、かき乱すように入ってきて自由奔放に振る舞うような独創ヴァイオリンの華やかな響きは、旧態依然とした体制の中で安住してきた人々にとっては、大変脅威であり威圧的な音楽に聴こえたのだ。
 これが他国だったらヴィヴァルディの音楽は抹殺されていただろう。だがヴェネチアは言論や出版に関して自由な風土を持っていた。ヴィヴァルディの音楽がヴェネチアの人々の間で大人気になっていったのは、むしろ当然の事だった。