調和の霊感 


(これがラグーナ?)

 調和の霊感

 前奏曲

 漆黒の闇の中で身体が左右に揺れている。
決して心地のいい揺れではないが、三ケ月以上も毎日、馬車に揺られ続けた華奢な身体には、この程度の揺れは、まるで揺りかごの中の包まれた赤ん坊のようだった。
 揺りかごには子守歌がつきものだが、ここでは、こんな小さな舟では沈んで沈んでしまうのではないかと思えるくらいの大男が、無神経にも頼みもしない民謡を大声で歌ってくれている。ただしヘタではない。その声質は、大男のわりには以外にもテノールだった。今の疲れた身体と心には、かなり鬱陶しい甲高い声だ。それにこの男は歌手ではない。この舟の船頭なのだ。今は自分の運命が、この船頭に握られている事は理解しているつもりだ。だから、おとなしくしている。ただじっと観察をしていた。それは、暗闇から微かに見えてきた大男の櫂を操る動きであり、舟底から聞こえてくる、不規則な波音などだ。
 その大男が歌をやめ、話しを始めた。
「お嬢さん、この潟(ラグーナ)は、大きな船では渡れないのだよ。特によそ者は絶対に通る事はできんぞ。深い所もあるが、どこに浅瀬があるのかわからんからな。だが、わしらはどこに、舟も通せね程の浅瀬があるのかがわかるのだ。だから歩いて潟を渡る事ができるのだ。」
 だから何なの?この大男は褒めてもらいたいの?何を言うべきなのか思案していた。
 するとその大男は続けて、
「もうすぐ大運河(カナーレ)に入ったらすぐに目的 地だ。」と、勝手に一人で話した。
 確かに遠く一点に見えた灯台の明かりが、次第にゆっくりと大きくなってきていた。
 それが灯台ではなく、聖堂の鐘楼かもしれないとわかった時には、漆黒の闇は薄れ、大男の人懐っこい笑顔もよく見えた。
 「ここがヴェネチア・・・」と、微かな声で呟いていた。そして、鐘楼の頂き高く揺らめく炎を見つめながら、再び呟いた。今度は少しだけ語気を強めて、
「フランツお兄さま・・・」