プラハでの悲しい大晦日


プラハでの大晦日はこんなよるだったのかあ)
 しつこいようだが、これは25年前の話だ。つまり、チェコがまだチェコスロバキアという国であった頃の話だ。
 大通りには人がまばらで、都会風な華やかさは全くなかった。山ちゃんは本格的な観光は明日にして、まず今日の宿泊を確保することにした。じつはブラチスラバで泊めてくれたシリア人の若者が、プラハに行くというと、「ここに友人がいるから泊まったらいい」と言って紙に住所を書いてくれたのだった。
 山ちゃんは大きなバス停をさがした。そこで紙を見せてバスを教えてもらった。バスに乗り込む時運転手にも紙を見せて確認した。バスが出発したが案の定、街中にその大学寮があるわけではなさそうだ。バスはドンドン郊外へ向かっていく。バスの中の客は山ちゃんと一人の男性老人だけになった。山ちゃんは不安になって紙をその老人に見せた。老人はウンウンと頷いた。どうやらその老人はドイツ語はわからないらしい。その当時のチェコにいる老人にはドイツ語が通じる事が多かったのだ。これはチェコの過去の歴史が物語っているのだろう。それは遠い昔からそうだった。音楽家では、肉屋の息子だったドヴォルザークは教養としてお父さんからドイツ語の家庭教師を付けさせられたのだった。ピアノ練習曲で有名なチェルニーチェコから来たのだった。
 そうこうするうちにバスの運転手が私に何か言ってきた。どうやらここで降りるらしい。老人もここで降りた。どうやらここが終点のようだ。
 老人は山ちゃんに指さした。指の先の建物が大学の寮らしかった。山ちゃんはブラチスラバで行ったように寮の受付で「ブラチスラバの学生に紹介されて来たのだが今晩泊めてくれないか?」と言ったがあっさりと断られた。どうしようもない雰囲気だったので、諦めてその寮を出ると、なんとそこにあの老人がいた。
どうやら心配して待っていてくれたようだ。老人が『どうだった?』とゼスチャーで訊いてきたので、『だめだった』と山ちゃんがゼスチャーで示したら、ついてこいと老人が手招きした。ついて行った先は、陸上のスタジアムだった。二人はスタジアムの管理室に入った。どうやら老人はスタジアムの夜警さんだったようだ。老人の親切は本当にありがたかった。だけどビールなどもなく、二人でテレビを見るだけの大晦日になった。老人は気をつかって時々山ちゃんに声をかけてくれた。テレビを見ながら「ダンス」「お〜ダンス」「シンガー」「お〜シンガー」などの会話がポツポツとおこなわれ山ちゃんは寝たのだった。