ビギナーズが終わった日(2)

 まさに養豚場の出荷チェックだ。しかも一件も見落とさないようにと厳重に行っ

ている。みんながそこを出ていったらドアが閉められ鍵が掛けられるのを俺は何度

もデイ・ルームから見ていた。一階から外へ出るドアの所でも同様のチェックが行

われているのだろう。俺はその最初のチェック時で呼び止められたのだ。なぜ名簿

に俺の名前が載っていないのか彼に問うても、自分は判らないから看護師に訊いて

くれと言う。それはそうだ。彼はただの患者だ。なんの権限もない。そこで俺は

スッポン・・いや担当看護師に訊いたら、看護部長の許可印が無いからダメだとの

答えだった。ここでは主治医の許可が出ても、そこから担当看護師の印が押され、

看護部長の印が押されてやっと全ての手続きが完了し成立するらしかった。まさに

豚の国外出荷並みの厳重なシステムだ。俺たちは豚か?もしかしてブランド豚?

まさかねえ、だがここはある意味で有名な病院らしいので、俺たちは立派なブラン

ド豚になる。俺はここで看護部長の強い権限を始めて思い知らされる日になった。

ちなみに看護部長は優しいおばさまという雰囲気の女性だった。だが人は天使とは

違う。見かけによらないのはどんな世界でも一緒だ。優しいボーダーコリー犬だっ

て仕事をする時は厳しく羊や牛の群れを管理している。老いた豚の群れなんて彼女

にとっては朝飯前だろう。そう俺たちはまさに囲いの中の豚なのだ。

ビギナーズが終わった日(1)

 俺が入院して12回の出席義務があったビギナーズ(初心者)ミーティングが

やっと終わったのは入院して約1ヶ月経った頃だった。日曜日以外の毎日行われる

このミーティングは通常なら2週間で終える。なのに1ヶ月も掛かってしまったの

は、別に俺が不真面目な患者だったからではない。むしろ好奇心溢れる俺にとって

この病院での生活は、決して居心地のいい所ではないものの、未知なる別世界へ足

を踏み入れたような感覚で、何事にも前向きに取り組んでいたつもりだ。そのこと

自体が不真面目だと思われていたのなら話は別だが、そうではなかったのだ。俺の

ビギナーズ・ミーティングの終了が遅くなったのはインフルエンザが院内で大流行

して約2週間院内の活動が全くなかったからだ。その間診察も行われず、一日中何

もしないで過ごしていたのだった。病気で、しかも大病を患って入院したのに診察

がないという大きな矛盾を自分の中でまだ感じてはいたが、それ以上に精神病院と

いう別世界で過ごしている今を受け入れるので精一杯だった。

 インフルエンザは収束に向かい、本来の院内生活が戻ってきたらしく(俺はその

 本来を知らなかったが)ビギナーズ・ミーティングもなんとか終えたのだった。

これでわずか15分程度だが朝の散歩で外に出ることができる。それが俺にはこの

上なく嬉しかった。

 翌朝意気込んでみんなと一緒に外へ出ようとした俺を呼び止める声がした。

「ヤマダさんは、名簿に名前が載っていないから外に出られないですよ。」え~、

なぜなんだ~?!戸惑う俺を尻目にみんなニコニコして階段の方へ向かっていた。

俺は本当に肝硬変?(4)

 外はすっかり明るくなり、院内もざわざわと次第に賑やかになってきた。

 俺は朝食を食べ終え、看護師たちが忙しくなる朝の検温、投薬等を済ませた頃を

見計らって、俺の担当看護師を見つけ、先生に相談したいことがある旨を伝えた。

それまでの時間の何と長く感じたことか。まるで恋人に会う前の待ち遠しさと同様

の時間経過だったが、その相手は同じ女性でも恋人とは天と地ほど違う。まるで美

しい月の下で泥沼にいるスッポンを捕らえるようなものだった。本来の待ち遠しい

相手は主治医であった。だが先生に相談したいとスッポンに伝えてからは、その待

ち遠しい相手に会うのが怖くなってきた。まるで嫌われるかもしれないと思いなが

ら憬れの女性を待ち伏せているような感覚に近かった。しかも院内のスッポンはな

かなか仕事ができるようで、すぐに俺の主治医がニコニコしながら「ヤマダさん、

 どうしましたか?」と部屋に入ってきた。主治医に会って自分の感じている疑念

を単刀直入に言おうと思っていたが、いざ口から出た言葉は切れ味鋭い単刀ではな

くフニャフニャしたシリコン製のしゃもじののようだった。俺はそれでメシトルど

ころか杓子定規な言葉でしか先生と話せなかった。

「先生訊辛いのですが、俺肝硬変ですよねえ?もう1ヶ月近く経っても投薬ばかり

 で先生の診察はほとんどないし、少しは恢復に向かっているのですかねえ。もち

 ろん先生を信用していますが、あまり治療らしいことが行われてないような気が

 するのですが・・・」と、弱気な言葉しか出てこない。これでは憬れの女性から

は見放されるのだろうが、先生は毅然として俺に言った。

「ヤマダさん、心配なのは無理もありませんが、毎週の血液検査の数値は素晴らし

 く改善してきています。本来はまだベッドで横になっていてもおかしくない状態

 だったのですよ。もちろんヤマダさんが頑張ってこられたから良くなっていると

 思います。だからもう少し身体を労ってやるつもりで休養してくださいよ。私も

 やまださんに効果のある薬を勉強しています。私は肝臓の専門医ではありません

 が、専門医以上に多くの患者の肝臓を診てきていると自負しています。ヤマダさ

 ん、もう少し一緒に頑張りましょう。」

 憬れの女性から一緒に頑張ろうと言われれば俺は当然頑張る。それを主治医から

言われたから・・・単刀直入ならぬ単純直情な俺は、主治医を信じてついていく決

心をした。

 

      *これはフィクションです

 

俺は本当に肝硬変?(3)

 明けの明星が輝きだした頃、闇夜がしだいにゆっくりゆっくり白々と明るくなっ

てきた。部屋の窓が東向きにあり俺のベッドがその窓側にあったことを感謝した。

起床の6時までまだ1時間ちょっとある。俺はこのまま窓の外の暁を見ておきたかっ

たが、同室のみんなに迷惑を掛けてはいけないので、そっとカーテンを閉め、静か

に仰向きになった。その時だった。ガサガサと無遠慮な音が響いた。それがデブで

あるのはカーテンが開く音の方向と足音でわかった。俺はトイレにでも行くのだろ

うと思った瞬間、部屋の静寂を切り裂く音にビックリした。デブは部屋に1つある

小さな洗面台で顔を洗いだしたのだ。しかも無神経な程の大音響でバシャバシャと

何度も洗っている。立派な洗面所がトイレの隣にあるにもかかわらずにだ。さすが

の俺も黙ってはいられなかった。起き上がってデブの立っている所へ行って耳元で

強い口調で囁いた。「みんなまだ寝ているんだし、起床まで時間があるのだから、

 もう少し遠慮して静かに洗ったらどうですか。」するとデブは「なあに、どうせ

 みんな起きるのだから同じ事だ。」と、意に介さず何度もバシャバシャと音をさ

せてフウ~と言いながらタオルで顔を拭いていた。これがデブ本来の性格なのか、

アルコールの後遺症なのか、病院生活のストレスからなのかわからないが、周りの

みんなもよく我慢しているものだと感心した。否、我慢できないで注意した俺の方

がおかしいのかもしれない。実際にこの病院の連中はよく自虐的に「どうせ自分た

 ちはアル中だから世間からみたら非常識なんだ。」と口にする。俺はそこまで自

分を卑下したくない。だが、デブではないが、これから俺は何をやっても、特に変

な事をするとアル中だからだと思われてしまうのだろうか。変なヤツという言葉が

褒め言葉だと思って生きてきた俺にとって、変なのはアル中だからだと思われてし

まうのは屈辱的だった。だって俺はただの肝硬変なのだから・・・では、なぜ俺は

精神病院に入院しているのだろう。そして俺の主治医は間違いなく精神科の医者な

のだ。俺は早く主治医である先生に会いたくなった。

 

     これはフィクションです

 

 

俺は本当に肝硬変(2)

 俺は闇の中で、この病院へ来たときのことを思い出そうとした。俺は精神病院へ

入ることに強い抵抗と観念との葛藤の中で、妻と一緒に俺の運転する車で病院へ来

た。ここで妻に付き添われてきたと言わないのも、俺の抵抗心からくるせめてもの

プライドだ。

 病院へ入って妻が受付で手続きする間、俺はソファに座っていた。そしてトイレ

へ入って戻ってくると妻はいなかった。。看護師から「奥さんは今、診察室で先生

とお話しされているので待っていてください。」と言われた。とても長く感じた。

妻が戻ると一緒に診察室へ入った。そこには30代の若い男の先生がニコニコしな

がら座っていた。俺は先生に、酒は止めたし演奏活動もしたいので入院はしないと

はっきり言った。妻は訝しいくらい完全に先生の見方だった。先生は俺にスランプ

の一つ、イプスの話をしてくれた。悪い状態の時の記憶が脳に残り、それにより意

識より脳が早く反応して再び悪い状態を引き起こしてしまう精神的な病で、最近知

られるようになったという。そして先生は俺と一緒にイプスを考えてみないか?と

話してくれた。俺は先生にうまく口車に乗せられてしまっていると思ったが、この

先生となら一緒に病気を治していきたいと前向きな気持ちになった。そうだった。

先生は精神科医だったのだ。俺の心を虜にするくらい朝飯前だったはずだ。その結

果として俺は病院のベッドで寝かされていた。その間の記憶が全く無いのだ。俺が

どうやって病院の1階にある診察室から鍵の掛かっている3階の病室へ運ばれたの

か憶えていない。もちろん妻と別れた記憶もない。もしかして注射か投薬で眠らさ

れたのかもしれない。疑心暗鬼は俺をどんどん闇の深みへと引き摺り込んでいく。

 

      *これはフィクションです

俺は本当に肝硬変?(1)

 俺は部屋に戻ってからその不安を口にすると、ブラックはさももっともらしく俺

に言った。「ここは精神病院だぜ。医者だって専門医ではないだろう。もしお前さ

 んが病気を本気で治したいのならここを出ていくべきだな。ここに居ると死んで

 しまうぞ。」確かにブラックの言うことは間違ってはいなかった。事実、俺の隣

で食事をしていたおじいちゃんは癌になって病院を出ていった。他にも昨日まで元

気そうだったおじいちゃんが今日は車椅子に乗せられて、食事も一人ではままなら

なくなっていた姿をこの目で見ている。俺の不安はより増長されていった。そこへ

デブが一言「あんたも早く退院したけりゃ、この病院ではおとなしくしておくんだ

な。」と吐き捨てた。俺は開いた口が塞がらなかった。ここは病院ではないのか?

まるで監獄の中の囚人と話してるみたいではないか。

 その夜俺は眠れなかった。疑心暗鬼が闇夜の不気味な壁の中から飛び出てきそう

な錯覚に何度も襲われた。(俺は本当に肝硬変だったのだろうか?主治医がいつも

 頼もしい笑顔で接してくれているのは憐れみの裏の顔なのだろうか?そういえば

 この病院へ来て2週間以上も経つのに主治医の診察はほとんどない。時々先生が

 やってきては腹や足を触診し、俺の顔色や目を見て笑顔で部屋を出ていくだけで

 治療らしいことといえば、毎食後服用される大量の薬だけだ。ここへ来てまだ数

 週間なのに自宅へいた頃が遠い昔のように感じる。俺は本当に肝硬変なのだろう

 か?)俺は気が狂いそうだった。朝の光が待ち遠しかった。俺はスーッとカーテ

ンを開けた。外はまだ闇の中だった。

 

      *これはフィクションです

院内の年寄りたち(5)

 数日経って、隣の席で食事をしているおじいちゃんも入院生活に少しは慣れてき

たようで、少しずつ食べ物も喉を通るようになったようだった。その頃の俺も入院

生活に慣れ、いろいろと耳にし口を利くようになっていた。俺はおじいちゃんに、

「少しは食べられるようになって良かったね。これでまた元気になれるよ。」と優

しく声を掛けたつもりだった。ところがこれがおじいちゃんの収束に向かっていた

負のエネルギーに火を注いでしまった。「うるさい!人のことはほっとけ。オレに

意見をするな!」と怒鳴られた。俺は「そう・・」と無表情を装って席を立った。

 俺は決して社交的なではないが、挨拶ぐらいは普通にできると思っている。だが

こっちが挨拶をしても反応がないか無視されたら、俺も良心的に無視するようにし

ている。つまり相手は話し掛けられるのが嫌なのだと解釈して、それ以後は空気の

ようにその相手と接する。そんな輩が院内に2,3人はいた。入院前の日課だった

早朝の犬の散歩の時よりは空気になってしまった輩ははるかに少ない。で、前出の

おじいちゃん、このまま俺にとって空気のような存在になってしまうのかと思いき

や、その後なぜか**さん、ヤマちゃんと呼びあう仲になったのだった。だが、そ

んな仲になって、そのおじいちゃんに癌が見つかって退院していった。病気になっ

て病院を 出ていったのだ。笑い事ではない。だってここは精神病院なのだから。

だとしたら肝硬変で入院している俺はどうなってしまうのだろうか?俺はにわかに

不安になった。